第09話   海 見 せ   平成25年02月15日  

 海見せと云う言葉がある。これも庄内独特の言葉であろう。 この海見せと云う言葉に、意味が二つあったとは最近になって知らされた。
 一つ目は、井伏鱒二の「庄内竿」の中に本間祐介氏聞いたとして「山内(山内善作)といふ人は、生前に一度、自分の非常に気に入った竿を二つ作ったが自分では使はずに、ほんの一度だけその竿に海を見させただけであった。これを磯見せまたは海見せと云ってゐた」とある。また、釣竿を作ったは良いが、あまりの出来栄えにどうしてもその竿を完成前に使って見たいと思うのが人の世の常である。庄内竿は完成までに、五年かかると云われているのだが、それ以前に試しに使って見る事を海見せと称し試釣りをして見る事も云う。実際には釣具屋で大量生産の庄内竿が作られ一般に普及されるようになると一年目の竿が売られていたから、一部の名人が古式に乗っ取って作った竿以外大半の竿が海見せの竿だったと云う事になる。酒井の殿様の忠明氏の若かりし頃、つまり明治の初め頃に購入された名竿の一本がそれまで一回も使ったことがなかったと気づかれた。そこで名人の作ったその竿を一度海に持って行き、海見せと称し使われてから自宅に保存したと云う。その竿とは、現在致道博物館に保管され、庄内竿の標準竿の作者として知られる丹羽庄衛門の竿であったと云う。以前の自分が解釈していた「海見せとは、海に釣竿を持って行き一度使って見る事を云う」と解釈をしていた。
 ところが最近水族館の村上館長との雑談の最中にもう一つの海見せが存在する事を知らされた。ある時館長が水族館裏の通称「太鼓」と呼ばれる釣岩の上で抹茶を立てている老人と出会った。その時小瓶に入った砂糖菓子を勧められた。「これを(砂糖菓子)を食べてから、抹茶をお飲みなさい!」と云われる。その老人曰く「今日は海を見せに来た!」と云った。良く見ると二間から三間の延竿が三本、釣具を入れたリックに整然とたけかけてあった。この三本すべてに思い出のある竿であったと云う。久しぶりにこの三本に海の空気を吸わせてやりたいと磯場に持って来たと云うのだ。また、岩場に緋毛氈を敷き海見せの儀式をしていたのを見た事もあったとも云っていた。 
 武士が作ったと云われる庄内釣道ではあるが、このような奥ゆかしい儀式まで作られていたとは今の今まで知らなかった。庄内の釣史を研究している身としては、まだまだ勉強不足と思い知らされた思いで一杯だった。
 今まで色々な著書の中でも書かれていたのは武士の職業としての武用の一助の為の体力、精神性の増強としての釣が宣伝されて来たように思う。たかが釣りであるが、優雅な道と云おうか精神性の到達点として見せた余裕を見た様な気がした。これはおそらく、生活に余裕のあった高禄の武士たちのその中の特に文化的素養の有った者たちによって作られた儀式なのではなかろうかと思える。そんな儀式が昭和の素養のある人たちの間に連綿として伝わって来ていたのである。さすが鶴岡は武士の生活が息づく城下町と思えた一瞬であった。
 江戸の遊釣としての釣では、決してこんな儀式などあり得ようがない。遊釣とは、飽く迄も遊びとしての釣なのであるから・・・・。江戸の旗本の津軽采女は、四千石の扶持を貰っていたにもかかわらず何も仕事がないのが仕事と云う小普請組に編入されていた。そこで暇を持て余し釣りに打ち興じた。そして最古の釣りの指南書と云われる『何羨録』が生まれた。本の冒頭に「釣りは江戸の娯楽」「釣り船に乗れば社会的名誉は重要ではない」と云う文を書いた。綱吉以前の江戸では庄内と同様に「釣魚は武士の修練の内」と考えられていた節があったが、生類憐れみの令が施行され綱吉死後廃止されて以後、二度とそのような解釈がなされる事は無かったと云う。それは遊釣としての釣りが町人にも普及して行ったからに他ならない。